最近のデレマスの現状が好きじゃない。

最近のデレマスの現状が好きじゃない。

 

もっと言うと、「素直に『好き』と言いづらくなっている」この現状が好きじゃない。

TLを軽く遡ってみると、デレステPは~だのコミュのライターが~だの、デレステの愚痴のようなものが数百RTされて流れてくるこの現状だ。

まあ、自分自身もデレステで、もっと言えばデレマスで消化不良な部分は山ほどあるし、それに関して不快、という気持ちが生まれるもまあ分からなくもない。

 

それはそれとして、そういうツイートの大半はゴミだ。

 

別に、文句を言うなとは言わないし、棲み分けの必要性からも嫌いなものは嫌いだと積極的に発信していくべきだとは思う。

だが同時に、「『嫌い』という感情に正当性はいらない」とも思っている。自分が上記のようなツイートがゴミだと感じる理由はそこだ。

 

例として、デレステPの問題を引っ張ってみる。

 

デレステPのセクハラが嫌!」

 

そうだね、不快に思う人もいると思うよね。

ここまでは何の問題もないし、ここまでならこちらも「感情」として受け入れられる。が、問題は次だ。

 

「プロデューサーとアイドルの関係はパートナー関係!デレステのライターは何も分かってない!」

 

ここである。「プロデューサーとアイドルの関係はパートナー関係」という、単なる個人の妄想に過ぎない「プロデューサーとアイドルはパートナー関係」なる謎論理が己の感情の「正当性」の根拠として堂々と掲げられる。ここが一番良くない。というか、不快だ。

「感情」であったときなら、まだ理解できるし「そうだね」と許容してあげられることもできる。それが単なる「感情」であり、正しいも悪いもないものであるからだ。

だが、「正当性」を求め始めたら話は別だ。自分の負の感情に「正当性」を持たせようとすることはつまり、対象を正しくないもの、絶対悪にまでこき下ろすことに他ならない。

自分が嫌いなのは、この「感情を正当化することによって、正義面をして対象を殴る」行為なのだ。

たかだか1ユーザーのくせに、神が如き尊大な態度で公式と対面し、出てきたものが自分の妄想と合致していれば「分かってんじゃん」と一人でふんぞり返り、妄想と違うと「これは間違っている!悪いものだ!死ね!」と言わんがばかりの激情でボコボコに殴る。もしくは、「私は対象からこんなに酷い仕打ちを受けました!トラウマになりました!」などと喚き、自分があたかも被害者であるかのような口ぶりで対象を殴る。

この、「単なる愚痴をわざわざ理屈立てすることで正当化させてから発信し、マウントポジションを取ってから対象を殴る」という卑怯さ、小賢しさ。

当人からすれば「愛故に」なのかもしれないが、自分からすれば「態度が無駄にでかい厄介古参」にしか見えない。それくらいには彼らのやり方は卑怯だし、同意できるものではない。

そういう人は、どれだけ良いイラストを描いていようが担当への愛が深かろうが、自分からしてみたら「折角良い面もあるのに、それを打ち消すほどの悪印象を与えるツイートをする人間」、つまりブロック対象でしかないのだ。

 

 

そして、こういう輩がデレマス界隈にわんさか蔓延っているという事実が一番問題であると、自分は思う。

公式の供給に対し、声の大きい「神様」が騒ぐ。それに呼応して次々と「神様」が増え、皆で一斉に囲んで「正当性」の名の下に公式を叩く。この一連の流れがここ最近、というかアニメ化あたりから度々見受けられる。

「誰にも迷惑かけてないんだから、言いたいこと言っても構わないだろ!」と思われるかもしれないが、それは違う。

そもそもTwitterというものには、アニメやテレビの実況等で分かるとおり「多くの人の感情、感想を共有する」という側面がある。観ている番組が面白ければ「面白い」と呟くし、つまらないのであれば「つまらない」と呟くだろう。そしてそこから「~が良かったよね」「~はイマイチだと思ったね」等のような「感想、感情」を呟く。

が、そこで誰かが「この番組は間違ってる!番組スタッフを首にしろ!」というツイートを流してしまったら、どうなるか。

それまでは「自分が面白いか面白くないか」の指標によって番組を観ていた人々は、その文言を見てからは「この番組は果たして正しいのか、それとも間違っているのか」という余計な段階を意識せざるを得なくなる。そして、「間違っている」という判断をしてしまったなら、その人は流れてきた正当化された愚痴ツイートを拡散するかもしくは同じような正当化ツイートをするだろうし、逆に「正しい」と判断してしまったなら、その人は流れてきたツイートの主をブロックする、もしくはそのツイートをしたフォロワーを解除するであろう。例え善悪の判断を下さなかったとしても、先の出来事が蟠りとなって、その番組を思い出すたびに「この番組は間違っている!」という正当化ツイートが脳裏をよぎることもあるはずだ。結局、誰にも迷惑をかけていないつもりでも、Twitter内にいる人間は多かれ少なかれ拡散されてきたツイートによって影響を受けることになるのだ。

先ほども言ったとおり、こういう発言は「愛故に」されていることが多い。だが、「この番組は間違っている!」といったような正当性の上で対象を殴る発言をTwitter上で共有させることは、例え本人が意図していなかったとしてもそれは一種の「煽り」になっているのではないか、と自分は思う。多くの人が、それまで自分の心の中で抑制されていた感情を、流れてきたツイート内に潜む「正当性」によって理屈が与えられることで解放させられ、対象を殴る方向へと集中させられる。それは、Twitterでも散々叩かれているアフィブログの対立煽りと行い自体は大差ないのではないだろうか。

人々の感情のタガが拡散されてきたツイートによって外され、抑えのなくなった剥き出しの感情だけが共有・拡散されてしまう。この「負の感情の連鎖」が、Twitterのデレマス界隈では頻発しているように見受けられる。

この「負の感情の連鎖」には新しく何かを生み出す力はないし(そこから負の感情を抜きにしたイラストや小説が生まれるとはあまり考えられない)、誰かとプラスの感情を共有させられるものでもない。つまり不毛でしかない、と自分は思う。それよりは、「このアイドルのこんな部分が好きだよ!こういう捉え方もあるよ!」といったような、人々の間でプラスの感情が共有されるようなものを発信、拡散していくべきだ。それは「公式のこのアイドルの描写は駄目!全然分かってない!」という発言で負の感情が共有されることよりかは確実に有意義だろうし、またプロデューサー間でのアイドルやコンテンツそのものへの多角的な視点の共有が可能であるはずだ。

 

 

「じゃあ愚痴はするなってことか」と思う方も、当然ながらいるだろう。

そのことについてだが、正当性を振りかざさない愚痴なら別に言ってもらっても全然構わないし何の問題もないとは思う。思うが同時に、「その愚痴ツイートによって失うものも考えてみたら?」とも思う。

Twitterの性質上、その人が描いたイラストなどが回ってくる際、見る側はその人本人の情報(具体的にはHNとアイコン)も受け取る。ある程度Twitterをやっていれば、その際に「この人、前あんな発言してたな・・・」と思い出すこともできてしまう。ここで思い出される発言が「公式へのバッシング」だったり「特定の二次創作へのバッシング」だとすると、どうだろう。人によっては、イラストをRTするのを止めてしまったり・・・なんてこともあるはずだ。(実際、自分は何度も経験している。)こういう「作者イメージが作品の受け取られ方にまで響く」というのは、作者側の明確な損失ではないだろうか。

もっと言ってしまうと、愚痴ツイートを見た人が「この愚痴ツイートのアイコン、〇〇(アイドルの名前)じゃん・・・」という受け取り方してしまい、愚痴ツイートが結果としてそのアイドルのネガキャンに繋がってしまう、なんてことが起こりかねないのだ(現に、そういう事例を何度か見かけている)。本当に悲しいことではあるのだが、こういう「作者のイメージが作者の担当アイドルにまで響く」ということもTwitterではあり得てしまう。殆ど風評被害のようなものだが、愚痴ツイートをしている方々はそういったことも認識しておいた方が良い。

 

 

とは言ったものの、最初に書いたとおり「棲み分けのためにも愚痴は必要」であるとも考えてはいるので、結局のところツイートが簡単に広範囲へと拡散・共有されるTwitterでは、マイナスの感情である個人の愚痴ツイートは、先ほども言った「負の連鎖」を起こしやすいのではないか、ということだけしか自分には言えない。

これだけだと最終的にどっちつかずな意見でしかなく、あまりに締まりが悪いのでこの「愚痴ツイート」問題について自分なりに改善策を見出してみた。

中国の朱子学には、「性即理」という考え方がある。これは、「人間の心は『性(本性)』と『情(人間の揺れ動く感情)』に分かれている。『性』は、道徳的な倫理観である『理』である。『情』は、表に出しすぎることによって悪いものとなり社会に影響を及ぼしてしまうので、『理』である『性』によって抑える必要がある。」という考え方だ。

この考え方を今回の問題に引用するなら、「情」は「デレマスの展開に対して抱く不満感」だろうし、「情」を表に出しすぎることは「正当性によって公式を殴ること」であり、それによって起こる社会への影響とは「Twitter上での負の連鎖」だ。

そして、「性」とは「ほどよく棲み分けに必要な程度の愚痴に調整すること」に当てはまる。これが「理」、すなわち感情を抑止するための倫理観でもある。

つまり、「不満に感じる気持ち」を「程度を調整する」ことによって、「負の連鎖」をできるだけ最小限に、もしくは無くしていけたらいいのではないか、と自分は考えている。

 

 

 

文章が恐ろしく下手で読みづらいであろう上にこんな訳の分からない戯れ言を真に受けてくれる方が果たしているのかどうかは置いておいて、これを書いたことでとりあえず今自分がやれるだけのことはやったつもりではある。